(96-11-1)
title: 性への自由 性からの自由』
author: 赤川 学
from: 青弓社 2、266円 1996.8
reviewer: 稲田 雅也

 すぐれた社会科学の論文とは、ミステリー小説のよう なものだと、かつて先輩の研究者から聞かされたことが ある。適切な問題設定(事件の発生)がなされ、その謎 を読者と共に解きあかして行く適切な手段(名探偵の登 場)があって初めて、それまで気づかなかった意外な結 末(犯人探し)にたどり着くことができる。ただし、意 外性と奇抜さとは別のものだ。論理的な飛躍や理解しが たい動機にはついていくことが難しい。それは単なる奇 抜な作文に過ぎない。目の肥えた読者から知的感動を引 き出すには、魅力的なキャラクターを持つ名探偵を創出 しなくてはならない。(ここまでは前置きです。場合に よっては削除して下さい。)

 著者は1967年生まれの新進気鋭の社会学者であり、こ の本はれっきとした学術書である。テーマは社会学の文 献に慣れ親しんでいる人にとっても、かなりぎょっとす るものだ。「ポルノグラフィ」が本書のテーマである。 「ポルノとは何か」。この単純な問いは、もちろんポル ノを厳密に定義するためのものではない。数学などにも 共通するが、簡単な問いに答えることほど難しいものは ない。

 ポルノを学術的にと聞くと、どうしても一部の市民団 体やフェミニストの「良い・悪い」論争、あるいは紋切 り型の「女性差別かどうか」的議論を連想しがちである 。けれども、本書では善悪の判断にはほとんど触れてい ない。その種の議論は、科学的な探求の範疇を大きく越 えているし、よい悪いばかりに心を砕いていたのでは、 結局は信仰告白に行き着いてしまい、この主題に付随す る何かが、隠蔽されてしまうと判断するからである(も ちろん評者は(そしておそらく著者も)具体的な被害者 に対しては、早急に救済の手が差し出されることを期待 してやまないし、無造作に誰もがアクセスできるような 状況は好ましくないと考える点では「良識ある人々」と 、何ら変わるところはない)。 

論争からひとまず離れて著者は、ポルノグラフィを取り 巻く社会的環境へと目を向ける。「かつてガロアが代数 方程式の解の求め方ではなく、解の存在条件を明らかに しようとすることで方程式論の危機を救ったように」( 大澤真幸)、ポルノが成立する社会的条件を探求しよう とする。まず認めなくてはならないのは、ポルノが悪い と言っても、相変わらず街中にはポルノグラフィは氾濫 している、という事実だろう。いや、出版文化がここま で発達し、家庭用VTRがほとんどの世帯に普及した現代 の日本では、むしろ時代を追うごとにポルノはますます 過激になっていくような印象すらある。国際線のエアラ インから、日本を代表する週刊誌が公序良俗に反すると の理由から撤去されたエピソードは記憶に新しい。パソ コン上でも、ポルノを簡単に「鑑賞」できるようになっ たし、通勤電車客の読む夕刊紙には、10年一日のポルノ 記事がきょうも掲載されている。毎日掲載されるという ことは、それだけ「需要」があるということなのである。

 このような現実からポルノとは何かという問いに答え るための、新しい方向性が見いだされる。ポルノが「良 い、悪い」議論と並行し、ますます氾濫するポルノ情報 。この一見対照的な現象が併存すること自体、どこかお かしな、ひとつの謎とは言えないだろうか。そこで探求 の手がかりとして、本書において著者が採用している方 法は、M.Foucault(1926−1984)の言説分析である。フ ーコーといえば1980年代の日本の知的な人々の間で、一 躍スーパースターとなった人である。その頃は彼の手法 を表面的に真似ただけの作品も、少なくなかったと聞い ているが、評者の知る限り成功した例はそれほど多くは ない。文中では、古今東西のポルノグラフィが、事例分 析として紙幅狭しと紹介される。近代最初のポルノ小説 と言われる作品から、最近の「有害コミック」の露骨な シーンに至るまで。おそらく一部の、とりわけ女性読者 には嫌悪感を抱かれることだろう。何しろ終章近くでは ストップウォッチ片手に、AVのリアルタイム・レポート まで登場するのだから。しかしそれらは決して興味本位 ではなく、本書が掲げる探求のためには欠くことのでき ないデータなのである。言説分析が成功するためには、 膨大な一次資料の読み込みが要求される。場当たり的で 中途半端なサーベイでは、結論の信憑性が怪しくなって しまうからだ。80年代に誕生した日本の言説分析の多く が失敗した理由のひとつは、功名を焦るあまりに十分な 資料収集を行わなかったことにある。この点では著者も 、必ずしも入手可能なすべての歴史的資料を走破したわ けではないと認めている。それでも本文に収録するテキ ストを選択するために、かなり悩んだのではないかと察 せられるほど、引用例は豊富である。

 その結果著者がたどり着いた結論(中間報告)とは、 、、。興味があればぜひ本書を繙いていただきたいのだ が、ごく単純化すれば、ポルノとは近代社会の個人(本 書では主として男性の)の「生成」に貢献しているので はないか、というものである。つまり、私たちはポルノ に接する−−自発的であろうとなかろうと−−たびに、 自らを性的な主体であることを確認している(させられ ている)のだという。なぜそんなことをわざわざしなく てはならないのかというと、近代社会とは個人というフ ィクションを前提として、初めて成立する社会だからで ある。いまここで個人とは何かという議論をするゆとり はないが、とりあえず私たちが日常考えている個人とい う概念は、歴史的にも地理的にも決して普遍的な存在で はないということだけ述べておこう。近代社会において は、「個人」=「性的な主体」なのではないかというの が、著者が提出する第2の結論である。この点について は意見が分かれるに違いない。たしかに私たちは(少な くとも評者は)、日常的な自意識において自分が「人間 である」という自己確認の方法はあまり行わない。数少 ない例外は、旅先で見たこともない大自然の風景を前に 圧倒されそうな感覚に襲われたり、イヌやネコと遊んで いて「お前たちはいいよなぁ、気楽で」と感じるときく らいだろう。むしろ都会で暮らしていると、「自分は男 である」という形式の自己確認を、意識するしないにか かわらず、圧倒的な頻度で行っているのではなかろうか

ところで、読み終えて新たな疑問が生じてきた。現代 においてポルノの消費者は圧倒的に男性が多いのはなぜ か、ということである。本書ではこの疑問に対して、必 ずしも十分に答えてはいないように思われる。女性が社 会規範によって、その接触に関して内面的にも外面的に も制約を受けているという意見にそれなりに説得力を認 めるとしても、本書では女性の自己確認にはほとんど触 れられていない。これはあくまで評者の予想に過ぎない が、女性には男性にとってのポルノグラフィに代わる自 己確認の「制度」があるのかも知れない。もちろん男性 にだってそのような制度は他にもいくつかあるだろう( すべての男性が日常的に接しているわけでは決してない ということも、また事実なのだから)。ただ性的なこと がらは、誰もが少なからず有するという点で特権的であ り、誰もが有しているの隠蔽しなくてはならないという 点で特異なのである。逆に言えば、だからこそ探求に値 するのであろう。フーコー的な手法と聞いて、人によっ ては結論をある程度予想したかも知れない。しかし単に 予想するという行為と、それを論理的な手続きに則って 「実証」あるいは「証明」することとは決定的に異なる 。評者はまったくの門外漢だが、あのフェルマー予想も 350年かかって最近解決されたと聞く。社会科学におけ る「実証」とは、自然科学のそれとは方向性が異なるの だが、研究に携わっている方たちで、本書のテーマにい ささかでも関心があるのならばきっと「楽しめる」と思 う。少なくともともすれば紋切り型の意見が繰り返され がちな、フェミニズムの議論に食傷気味な人には、新た な知的感動を与えるのではないか。評者が本書を繙いた 理由は、そんなところにあったのかも知れない。